夢への賭け:インド人エンジニアが日本の自動車産業で夢を実現するまで

内定先企業

独立系の自動車シートメーカーとして開発・製造・販売を行う

機械工学専攻を卒業し、日本語力の高いインド人材。卒業後に現地の粉砕機メーカーで設計エンジニアとして2年間の就業経験がある。SOLIDWORKSやCATIAを用いて設計業務に携わってきた。卒業研究では、高圧ダイカスト(HPDC)金型の製造プロセスについての研究を行なわれた。即戦力として期待できる。

Profile

国籍・地域
インド
大学
ババサヘブ・アンベードカル工科大学
学部
機械工学
最終学歴
学士

元日本駐在員の叔父に触発されて  

ババサヘブ・アンベードカル工科大学で機械工学を学んだ私は、将来の進路について真剣に考えるようになりました。自分が何になれるのか、何ができるのかを考え、友人、クラスメイト、教授、家族に相談しました。その中でも日本で10年間働いていた叔父との会話はとても印象に残っていました。  

叔父は「日本語を学べば日本での仕事のチャンスが広がるし、自分の性格にもプラスになる。」と言ってくれました。新しい言語を学ぶことで、世界を見る新しいレンズが手に入り、視野が広がるそうです。そして叔父は、日本での仕事や生活の経験について話してくれました。彼の話し方や目を輝かせながら自分の経験を語る姿、また叔父の印象的なライフスタイルの話から、私は心を動かされました。そして私も叔父の背中を追いかけたいと思いました。   

日本でのキャリアを実現するために、日本語の勉強に苦労した日々 

私は地元の学校でN5とN4の日本語を勉強しました。N3レベルの日本語は、2023年1月にHiramekiという日本語クラスに参加しました。しかし、仕事の都合で勉強に集中できず、授業を欠席することも多く、その年の6月のN3試験は不合格でした。  

日本で働くという夢を追いかけるのにおいて、仕事が足かせになったのは事実です。しかし同時に、私の仕事は私の夢を守り続けてもくれました。私が勤めていたインドの建設機械製造会社は、日本の方法論を導入していました。「改善」で継続的な向上を推し進め、「かんばん方式(トヨタ生産システムにおいて,後工程引き取り方式を実現する際に,かんばんと呼ばれる作業指示票を利用して生産指示,運搬指示をする仕組み」で全てのプロジェクトの準備を万全にし、「5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)」で組織の清潔さを保証し、日本の生産システムの枠組みで全ての部門が連携し、円滑に動いていました。私は、この日本の基準に忠実なインドの現地企業を通じて、叔父が何年も前に話していた仕事文化を体験することができました。そしてこのような考え方がどのように素晴らしい結果を生むのか、身をもって知ることができました。   

「私が働くインド企業が日本の仕事文化を導入しただけでこれほど生産的になったのだから、このアイデアの発祥地である日本企業はもっと生産性が高いのだろうか?さらに、このような働き方が生き方に繋がるとしたらどうだろうか?もしこのルールが会社から飛び出し、より大きな規模で反映されているとしたら?国全体がこのアイデアを模倣したら?」このような疑問を確かめるためにも、私は日本に行く必要がありました。   

私は日本語の勉強を再開しました。2023年、私はフルタイムで働きながら懸命に勉強しました。ポッドキャストを聞いたり、アニメを見たりしてモチベーションを高く保ちました。また、HelloTalkのようなアプリを使って日本語のネイティブスピーカーと話しました。しかし、 日本語能力試験に合格するための条件を調べた時、私はまだ物足りなさを感じ、日本語の授業を受講することが必要だと思いました。  

2024年1月、私はFAST OFFER Internationalの無料日本語クラスを受ける資格を得ました。初めてFAST OFFER Internationalのことを知ったのは、私がまだ大学生の時でした。友人がこのプログラムを通じて日本での就職に成功したのです。残念なことに、当時はインドでの無料日本語クラスはプネ大学の学生だけでした。しかし今回はその制限がなくなり、私はそのクラスに参加し、無料で日本語を学ぶことができるようになったのです。  

「このチャンスを逃すわけにはいかない。」当時、フルタイムの仕事と両立させようとした私は、クラスで遅れを取っていました。しかし、家族の支えもあって、不安もありましたが会社を辞める決断をし、Fast Offer Internationalで日本語の勉強に専念するという大きな覚悟を決めました。 

 

日本への旅: 面接と夢の自動車業界への就職  

何カ月も日本語を磨いた後、4月頃からいよいよ就職活動が始まりました。Fast Offer Internationalのメンターが付き、プロセス全体を通して指導してくれました。プロセスの中で、日本企業からオファーを受けるための自己紹介ビデオや必要な書類などを送りました。その後3社からオファーを頂いたことを知り、日本で面接会に参加できると知った時は、本当に嬉しくて興奮しました。 私のメンターは、模擬面接を通じて面接の準備を手伝ってくれました。 

そして 日本へのフライトは6時間遅れでした。幸先の悪いスタートだと感じましたが、飛行機が東京上空を滑空し、ネオンが浮かび上がったとき、全てが変わりました。東京に降り立ち、電車、地下鉄、夜景を体験するのは夢のようでした。実際に自分の目で日本を見ることで、私の熱意はさらに高まりました。規律正しい日本人の成果である、美しく整理整頓された清潔な街を見て感動しました。日本へ飛び立った時、私はジェットコースターのような感情を味わいました。長い間待っていたのです。この機会にとても感謝していましたし、嬉しかったです。ただ同時に不安もありました。初めての日本での面接ということで、気が重かったのです。日本へ向かう途中、3社のうち1社が面接を辞退し、私の可能性は2社に絞られました。競争相手への不安もありました。当時、一緒に行った他の学生は全員学部生で、私よりも就職できる確率が高いと思っていました。また、失敗しても再挑戦しやすいでしょう。一方でこのために仕事を辞めた私にとっては、この一発にすべてが掛かっていたのです。  

一方でこの旅を導いてくれたスタッフの方々も、常に私を安心させ、私の気持ちを和らげてくれました。彼らの精神的なサポートは本当に大きかったです!「リラックスして自信を持ちなさい。準備は万全だ、後は自分らしくいるだけだ!」と。 仲間の助けを借りて、私はさらに自信を付けることができました。オリエンテーションの後、私たちはお互いに模擬面接をして助け合いました。しかし面接当日になると、準備万端の自信とは裏腹に、緊張感から完全に逃れることはできませんでした。 

面接が終わり、結果を待つ間、私は非常に不安でした。すると、恩師が1社の1次面接合格を祝福してくれました。しかし私は複雑な気持ちになりました。もう1社は不合格だったのです。私はメンターにもう1つの会社で不合格になった理由を尋ねました。彼らは、「君は何も間違ったことは言っていないが、私のスキルセットと材料力学への情熱は、その会社が必要としている流体力学を専門とする人物と合致しなかったのです。」と言いました。そうしてそのことを深く考える代わりに、私は最終面接に集中しました。   

最終面接の後、結果を待つのがとても不安でした。前日、有名な「チームラボ」の前売り券を買っていたのです。もし面接に落ちた後にそのミュージアムの綺麗な光を放つホールを渋々通らなければならなかったら、私はとても落ち込んでいたででしょう。どんなにきらびやかな照明が美しくても、落ちたら楽しめないと思いました。そしてプレッシャーを感じました。日本で働くという私の夢は、全てこの最終面接にかかっていたのです。そしてついに合格を知った時の私の安堵と喜びを想像してみてほしいです!私は言葉を失いました。ついに自分の目的を達成したのでです。「チームラボ」へ遊びに行ったことは、祝賀会に変わりました。  

日本の自動車産業で活躍するインド人エンジニアとしてのわくわくする未来 

面接会の終わりに、私は満足感を覚えました。内定先の会社は、私の興味・スキル・情熱・目標にとって完璧なのです。私が最も興味を持っている業界である自動車産業の一員になることができました。このプロセス全体が、既に私を大きく良い方向に変えてくれました。日本語を学んでから、日本の文化を掘り下げるにつれて、自分の性格が変わっていくのを感じています。日本に行ったら、私はどれだけ変わるのだろう?新しいことを学び、日本中を旅行し、叔父が経験した日本の労働文化を実践する中で、日本が私をどう変えていくのか楽しみです。日本に長期滞在することで、私がどのような人間、そしてエンジニアに成長するのかとても期待しています。   

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