幼少期の日本での思い出
私は父が埼玉大学の大学院に進学したため、2歳から7歳までの5年間を埼玉で過ごしました。私は一般的な日本の幼稚園と小学校に通いました。小学1年生の頃下駄箱で友達と石を投げて学校の先生に叱られたことや、夏休みの宿題を全く計画的に進めていなかったことを覚えています。また冬には友達と公園や校庭で雪遊びもしました。本当に当時は周りの人に恵まれていたと感じます。家庭内では兄とは日本語で話し、両親とはインドネシア語と日本語で話していました。
このように私はインドネシア語よりも日本語の方が最初に学んだので、私の第1言語は日本語です。そのため言語や文化面では日本に適応しており、日本にいても全くマイノリティだとは感じませんでした。
そのためインドネシアに帰国したときは大変でした。特に言語のハードルが大きく、1年留年しました(笑)。また、カルチャーショックも大きかったです。インドネシアでは素手でご飯を食べる時があるのですが、日本でスプーンやフォークで食べることに慣れていたため、少し適応するのに時間がかかりました。
紆余曲折を経て、日本での就職を決意
インドネシアに帰国後も日本のアニメを見ていたため、日本語は忘れませんでした。
小さい頃から日本に留学したいという思いはありましたが、専攻のコンピューターサイエンスにおいてはドイツの技術が進んでいるので、高校2年生の時からドイツ留学を目指してドイツ語も勉強していました。ただ、新しい言語を1から勉強するのは難しく、ちょうど新型コロナウイルス感染症が流行して、留学も難しくなってしまいました。
就職に関しては、「人生一度きりだから他の文化にも触れてみたい!」という思いがあり、海外で働きたいと考えていました。かつ私は日本語のアドバンテージもあったので、日本での就職を決断しました。
FASTOFFERを通じた就職活動
FASTOFFER Internationalは大学の先輩の紹介で知りました。
日本の会社での面接スタイルは、インドネシアの会社と大きく異なるので最初は大変でした。例えばインドネシアの会社では面接の際スキルを多く聞かれますが、日本の会社は人柄やこれまで頑張ってきたことなどを聞かれます。面接前にメンターさんと何回か模擬面接をしてもらいましたが、最初は沢山失敗しました。そこでYouTube上の「面接のコツ」動画で日本企業の面接では人のポテンシャルを見ていると知り、答え方を改善しました。また、企業研究や自己分析も難しかったです。ただ、日本語にアドバンテージはあるので、自信はありました。
私はFASTOFFER Internationalに登録して、約1か月で内定を頂きました。面接に合格した時は、全く信じられませんでしたが、少し時間が経つと「良し!」と実感が湧いてきました。内定先の会社は元々第一志望だったので、とても嬉しいです。
入社後の目標
入社後は、プログラミングに関連する職種に就くと思いますが、まだ具体的に何かは決まっていません。ですが、一度何かの企画のマネージャーをやってみたいです。そこでスキルと経験を積み、将来的にはインドネシアで起業も考えています。
メッセージ
言語を勉強する時は、その言語をたくさん使って吸収して下さい。実際に言語を話して使わないと、会話の際にどう返答すれば良いかわからなくなってしまいます。日本語を勉強している友達を探して、一緒に練習すると良いと思います。
また、就職活動においては自分に嘘をついてはいけません。自分が一番やりたい仕事を妥協せずに選んで下さい。やりたくない仕事のオファーは拒否しても良いと思います。
頑張って下さい!