情熱的な自動車工学専攻のチュラロンコン大学生になった経緯
高校時代、私は物理学の面白さに目覚めました。タイ物理オリンピアードでは銅メダルを獲得したこともあります。そうした経験から、私は国内屈指の名門であるチュラーロンコーン大学で機械工学を学ぶ道を選びました。けれども、入学してまもなく、その学びがあまりにも幅広いことに気づいたのです。私は、もっと専門性の高い分野で、自分ならではの強みを持ちたいと思うようになりました。そこで自動車工学へと転科しました。
ただ、一つ問題がありました。当時の私は、車について何も知らなかったのです。その不足を埋めるため、放課後にはモーターショーへ足を運ぶようになりました。実際に見て、触れて、学んでいることを体感できたことで、私の関心はますます深まっていきました。やがて私は、車をつくる工学そのものに、心からの情熱を抱くようになったのです。
大学卒業後すぐ、大学の先輩から声をかけていただき、車の修理に関するアフターサービス・コンサルティングを専門とする会社で働くことになりました。そこでは、車がライフサイクルの終盤に差しかかった姿を見ることができました。私は車両をリバースエンジニアリングし、一つひとつの部品がどのような影響を与えているのかを見極め、修理のための解決策を考えていました。実際に車を観察し、それを設計したエンジニアたちの思考をたどっていく作業は、私にとってとても刺激的なものでした。
タイの自動車業界の限界が、私を日本へ向かわせた
自動車業界で働く中で、私はタイ国内の産業が抱える限界にも気づくようになりました。新しいデザインを生み出したい企業を後押しできるほど、政府には十分な予算がありません。そのため、私たちは修理の領域にとどまらざるを得ませんでした。けれど私は、いつしかその反対側、つまり「つくる側」に立ち、自分の自動車工学の力を発揮したいと強く思うようになっていました。
一方、日本の自動車業界には多くの可能性がありました。日本には世界を代表する自動車会社が数多くあり、品質の高さ、顧客サービス、そして手の届きやすさの面でも高く評価されています。日本は世界有数の自動車市場を持つ国です。私は、その一員になりたかったのです。けれど同時に、自信のなさも私を縛っていました。日本には優秀な人材がたくさんいるのに、なぜチュラーロンコーン大学を卒業した私のようなエンジニアを必要としてくれるのだろうと思っていました。
私は昔からずっと日本へ行きたかった
本当を言えば、自動車エンジニアになる前から、私はずっと日本へ行きたいと思っていました。その夢は、小学生の頃から、チュラーロンコーン大学の工学部で学んでいた頃も、社会人になってからも、心のどこかにずっとあり続けていたのです。
家族は長年、何度も日本へ旅行してきました。兄と私は、日本の学校に通い、一年間しっかり日本語を学びたいと本気で願ったこともあります。けれど事情が重なり、その夢を実現することはできませんでした。失意のなかで、私は日本語の勉強をいったんやめてしまいました。それでも、日本への思いが消えることはありませんでした。日本の音楽を聴き、たくさんのアニメを見続け、日本への旅行のたびに、日本語を使う機会も重ねていきました。
日本へ頻繁に行っていたおかげで、日本語は自然と役に立つようになっていきました。実は、日本語を学び始める前、13歳のときに、私たちは日本で親族を見失いかけたことがありました。電車に乗っていて、慌ただしく降りたあと、ふと気づくと、その方がいなかったのです。私たちは大慌てで探しましたが、その頃の私は日本語がほとんど話せませんでした。言えたのは「トイレはどこですか?」くらいでした。幸い、その親族は無事にホテルへ戻ってくることができましたが、その出来事をきっかけに、私は「もう二度と同じことが起きないように」と、日本語をもっと真剣に勉強しようと決意しました。
愛が、幼い頃からの夢だった“日本で暮らすこと”を後押ししてくれた
それから年月が経ち、私は2022年と2024年に、技能の卓越性と国際的な職業基準を称える権威ある国際大会「WorldSkills Competition」で、タイ語通訳として参加しました。世界最高水準の技能者たちと直接関わる中で、私は日本でキャリアを築きたいという思いを、いっそう強くしていきました。そしてこのWorldSkillsの経験を通じて出会った人の中に、私にとって特別な存在となる人も現れました。そうしたすべてが重なって、「日本で働きたい」という気持ちは確信へと変わり、私はその目標に向かって、日本語をさらに磨き、日本文化にもより深く触れていくようになりました。
FAST OFFER Internationalのことは、友人を通じて知りました。まだ自信はありませんでしたが、思い切って登録しました。すると驚いたことに、ほどなくして3社との面接の機会を紹介してもらえたのです。しかも、それ以上日本語を勉強しなくても、すでに面接に臨めるレベルだと評価していただきました。
FAST OFFER Internationalでの私の歩み
仕事が忙しく、日本へ渡航することはできなかったため、私はオンライン面接を選びました。関心を示してくださった3社のうち、私は2社との面接を受けることにしました。物事は自分の予想よりもずっと速く進んでいきましたが、その一方で、私はまだ「本当にうまくいくのだろうか」と半信半疑のままでした。とにかく挑戦して、経験を積むことに意味があるのだと、自分に言い聞かせていたのです。
最初の面接は、パートナーの住む街から離れた場所にある自動車関連企業でした。経験を得るにはよい機会だと思っていましたが、合格するとはまったく期待していませんでした。日本に、チュラーロンコーン大学を卒業した私のようなエンジニアの居場所が本当にあるのか、まだ疑っていたのです。
そんな気持ちのまま面接に臨んだ私は、かなり気楽な姿勢で受けていました。ところが、その日の夜になって、合格し、翌日に最終面接を受けることになると知らされたのです。私は本当にあ然としました。心臓が高鳴り、信じられませんでした。本当に日本で働けるかもしれない。可能性がすぐ目の前に迫ってきて、そこでようやく、その現実味が胸に落ちてきたのです。
現実味を帯びた最終選考で、私は別人のようになっていた
この機会を絶対に逃したくない。そう強く思った私は、不安でいっぱいでありながらも、それ以上に強い決意に満ちていました。最終面接の私は、まるで別人でした。ずっと真剣で、覚悟を持って臨みました。そしてありがたいことに、無事に合格することができたのです。驚きで言葉を失いました。ずっと自分を縛っていたのは、ほかでもない自分自身だったのだと、そこでようやく気づきました。
チュラーロンコーン大学工学部卒業生として、日本で生き、働くということ
チュラーロンコーン大学工学部を卒業したことが、まさかこんな未来につながるなんて、誰が想像したでしょうか。
私はいま、日本で待っている新しい暮らしに胸を躍らせています。日本で、楽しく、刺激的で、自立した生活を送り、好きなだけ日本食を楽しみたいと思っています。気候にもとても惹かれています。季節ごとに生まれるさまざまなファッションも好きですし、季節が移ろっていく感覚そのものにも魅力を感じます。タイの暑さに慣れているからこそ、日本の涼しさがいっそうありがたく思えるのです。こうしたすべてを、もうすぐ自分のものとして体験できるなんて、今でも信じられない気持ちです。
そして自動車エンジニアとしても、これから開かれていく可能性に大きな期待を抱いています。入社する会社は車両部品の設計を専門としており、それは、部品の設計が車のライフサイクルにどれほど大きな影響を与えるかを見てきた私にとって、まさに理想的な環境です。今度の私は、誰かが設計したものを修理するだけではありません。自分自身の設計を形にしていけるかもしれないのです。